「古畑vsSMAP」を見たくなっちゃった/古畑任三郎「フェアな殺人者」
2006年1月5日 SMAPイチロー、うまいわー。
ご本人曰く「大のドラマ好き」だそうで、去年のシーズン後のインタビューかなにかで当時はまっていた「白い巨塔」についてあつーく(VTRを早回しにされるほど)語っていた。
「家にいる時はエンドレスで(白い巨塔が)ついている」そうで。
それはいや。
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冒頭や謎解き前のモノローグでこの話はもちろんフィクションであることを強調していた。
「本物のイチロー選手はもちろん人なんか殺してません」
ああいう言葉は繰り返されるとドラマ的にはマイナスなのだが、それでも言わないわけにはいかないくらい影響力があるということか。
「本当は”ハチロー”という役名で演ってもらうはずでした。本人が自分を演じたいと言ってきたものですからイチローのままになりました」
この話が本当なのか、それともドラマの上でのジョークなのかはわからないが、私は「ハチロー」の役名で演じた方がおもしろかったのではないか、と思う。
「古畑」で自分自身を演じたといえば、もちろんSMAP。
この話を知った時は興奮したものだ。
そして放送前に危惧、というかどう処理するのかを考えたのはメインの5人の背景をどう説明するか、だった。
これはかぎりなく私見だが、2時間ほどのドラマで(本当は映画も含めて)キャラの設定およびシュチュエーションを15分で説明できないものは失敗することが多い、と思っている。
見ている方が待っていられないわけだ。
今回メインが5人いるわけで、15分の枠内で5人の性格や関係性をどう説明するのか、逆に言えばどのような関係性にすれば簡単な説明ですむのか、と思っていたら、
「SMAP」という設定を持ってくるという大技に出たわけである。
パブリック・イメージを最大限有効利用したものすごくうまい手だった。
「中居正広」
「木村拓哉」
「稲垣吾郎」
「草なぎ剛」
「香取慎吾」
そして「SMAP」
彼ら自身が画面に姿を現しただけで、その人物がどんな性格設定をされているか、どんな関係なのか何も説明する必要はない。あとは新たにドラマ用に設定されているものを説明していくだけだ。視聴者は「そういうドラマをSMAPが演じているのだな」ということですぐ納得する。
かくて群れスマ、ライブ、「5人の友情」とファンにもたまらない一級品の娯楽作に仕上がった。
このSMAP編が今回のイチロー編とどこが違うのかというと、SMAPの場合はあくまで彼らがTVの中で見せるイメージ、いうなれば虚像が元になっている、ということだ。もちろん中居正広は実在するし、ライブや番組の観覧に行けば本人には会えるが、それは決してTVの彼ではない(逆に違いすぎる)。「TVの中居正広」はTV番組の中でしか存在しない。「キャラ」というものだけが強烈に存在して、あとの背景はおぼろげなのでどんな設定を持ってきてもぶれないというわけだ。
でも、イチロー選手の一般のパブリック・イメージというのはファンでない限り「アメリカですごい活躍をしている日本人のプロ野球選手」というだけのものだろう。
彼がどんな性格をしているのか私はよく知らない。
性格は知らないけれど、昨日のドラマのお兄さんの設定などが「ウソ」であることはわかっている。
「ドラマなんだから当たり前」と言われてしまえばそれまでだが、どうも見ていてウソとほんとの表現具合に違和感を感じられて仕方なかった。私にとってはうまいウソではなかった。ラストがあまり後味のいい感じに思えなかったのはそのためではないか、と思う。
イチローはあまりに自分をうまく演じすぎたのではないか。
2回も「これはフィクションです」の但しが入ったのはそのためではないか。
これが「ハチロー」だったら、「ドラマとして」ぴったりハマっていたと思うのだが。
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余談ですが。
「古畑vsSMAP」で富樫が殺される日のライブのシーンには私の友達が参加してまして、その時のエピソード。
客電が落ちて、SMAPがセリから上がってくると同時に歓声があがりますよね。
あれはもともとは声を出さないことに決められていたそうです。
リハをやっていて、木村さんが
「ライブではすぐに歓声があがるよね」と言い出して、本編のような、リアルな感じになったというわけです。
アイディアマン木村の一エピソードでした。
ご本人曰く「大のドラマ好き」だそうで、去年のシーズン後のインタビューかなにかで当時はまっていた「白い巨塔」についてあつーく(VTRを早回しにされるほど)語っていた。
「家にいる時はエンドレスで(白い巨塔が)ついている」そうで。
それはいや。
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冒頭や謎解き前のモノローグでこの話はもちろんフィクションであることを強調していた。
「本物のイチロー選手はもちろん人なんか殺してません」
ああいう言葉は繰り返されるとドラマ的にはマイナスなのだが、それでも言わないわけにはいかないくらい影響力があるということか。
「本当は”ハチロー”という役名で演ってもらうはずでした。本人が自分を演じたいと言ってきたものですからイチローのままになりました」
この話が本当なのか、それともドラマの上でのジョークなのかはわからないが、私は「ハチロー」の役名で演じた方がおもしろかったのではないか、と思う。
「古畑」で自分自身を演じたといえば、もちろんSMAP。
この話を知った時は興奮したものだ。
そして放送前に危惧、というかどう処理するのかを考えたのはメインの5人の背景をどう説明するか、だった。
これはかぎりなく私見だが、2時間ほどのドラマで(本当は映画も含めて)キャラの設定およびシュチュエーションを15分で説明できないものは失敗することが多い、と思っている。
見ている方が待っていられないわけだ。
今回メインが5人いるわけで、15分の枠内で5人の性格や関係性をどう説明するのか、逆に言えばどのような関係性にすれば簡単な説明ですむのか、と思っていたら、
「SMAP」という設定を持ってくるという大技に出たわけである。
パブリック・イメージを最大限有効利用したものすごくうまい手だった。
「中居正広」
「木村拓哉」
「稲垣吾郎」
「草なぎ剛」
「香取慎吾」
そして「SMAP」
彼ら自身が画面に姿を現しただけで、その人物がどんな性格設定をされているか、どんな関係なのか何も説明する必要はない。あとは新たにドラマ用に設定されているものを説明していくだけだ。視聴者は「そういうドラマをSMAPが演じているのだな」ということですぐ納得する。
かくて群れスマ、ライブ、「5人の友情」とファンにもたまらない一級品の娯楽作に仕上がった。
このSMAP編が今回のイチロー編とどこが違うのかというと、SMAPの場合はあくまで彼らがTVの中で見せるイメージ、いうなれば虚像が元になっている、ということだ。もちろん中居正広は実在するし、ライブや番組の観覧に行けば本人には会えるが、それは決してTVの彼ではない(逆に違いすぎる)。「TVの中居正広」はTV番組の中でしか存在しない。「キャラ」というものだけが強烈に存在して、あとの背景はおぼろげなのでどんな設定を持ってきてもぶれないというわけだ。
でも、イチロー選手の一般のパブリック・イメージというのはファンでない限り「アメリカですごい活躍をしている日本人のプロ野球選手」というだけのものだろう。
彼がどんな性格をしているのか私はよく知らない。
性格は知らないけれど、昨日のドラマのお兄さんの設定などが「ウソ」であることはわかっている。
「ドラマなんだから当たり前」と言われてしまえばそれまでだが、どうも見ていてウソとほんとの表現具合に違和感を感じられて仕方なかった。私にとってはうまいウソではなかった。ラストがあまり後味のいい感じに思えなかったのはそのためではないか、と思う。
イチローはあまりに自分をうまく演じすぎたのではないか。
2回も「これはフィクションです」の但しが入ったのはそのためではないか。
これが「ハチロー」だったら、「ドラマとして」ぴったりハマっていたと思うのだが。
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余談ですが。
「古畑vsSMAP」で富樫が殺される日のライブのシーンには私の友達が参加してまして、その時のエピソード。
客電が落ちて、SMAPがセリから上がってくると同時に歓声があがりますよね。
あれはもともとは声を出さないことに決められていたそうです。
リハをやっていて、木村さんが
「ライブではすぐに歓声があがるよね」と言い出して、本編のような、リアルな感じになったというわけです。
アイディアマン木村の一エピソードでした。
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